遠藤保仁は、日本代表として最多の出場回数を誇るボランチだ。
正確なパスと代名詞のコロコロPK。常に飄々とプレーする様子は見ていて美しい。
遠藤保仁の活躍と魅力をまとめた。
生い立ち
遠藤保仁(えんどう やすひと)
鹿児島県に三人兄弟の末っ子として生まれる。
Jリーガーになる兄の影響もありサッカーを始める。
小さかった遠藤保仁は、成長の早い兄と遜色ないプレーをするには技術を身につけるしかなかった。
兄達と遊びながら高い技術を身につけ、鹿児島県の名門、鹿児島実業高校へと入学する。
1年生からレギュラーを獲得。選手権優勝。2年生の時にもタイトルを獲得し、選手権では優秀選手に選ばれる。
高校時代には、ブラジル人コーチに勧められブラジルへのサッカーの留学を経験。
プロ入り後
高校卒業後、横浜フリューゲルスに入団。すぐに試合に出場し、ゴールも決める。
経済的な理由の金銭難により横浜フリューゲルスが消滅。
それに伴い京都サンガへと移籍。レギュラーを獲得するも、チームの2部降格によりガンバ大阪へ移籍を決める。
ガンバ大阪では、0対1で負けるなら5体4で負けた方がマシという超攻撃的サッカーを掲げる西野朗監督のもと、マグノアウベス、アラウージョ、フェルナンジーニョといった個性の強い攻撃陣の舵取り役を任された。
ガンバ大阪は黄金期を迎え、遠藤保仁を中心に結成した中盤のパスワークに加え、アタッカー陣の破壊力を止められるチームはいなかった。ガンバ大阪はリーグ3連覇を達成する。
13年にはJ2に降格してしまうが遠藤は残留することを決め、1年でのJ1復帰。
そして、復帰したシーズンにJ1優勝へとチームを導いている。
日本代表
小野伸二、稲本潤一、本山雅志らとともに同じ黄金世代といわれた。
同世代が活躍した日韓W杯、ドイツW杯では出番に恵まれなかった。
同世代の選手達が代表から離れるなか遠藤保仁は代表で不動の地位を確立。
日本代表は遠藤保仁がいる時といない時で別のチームになるほどであった。
南アフリカW杯では自身も直接フリーキックを決め、日本のグループリーグ突破に大きく貢献。
最多代表キャップ数
監督が変われば選ばれる選手も変わる。
カウンター重視の戦術であれば足の速い選手や、守備的な戦術を敷くのであれば、対人に強い選手が選ばれる。
目指すサッカーによって必要なピースは変わる。
そんな入れ替わりの激しい日本代表チームに選ばれ続けていた遠藤保仁選手。
監督が変わるたびに代表に招集され、どの監督にも愛され、必要とされた。
遠藤保仁のことをピッチ上の監督と呼ぶ監督もいた。
誰からも必要とされる換えの効かない選手であった。
陰の努力
遠藤は努力している姿を見せない。
そんな遠藤がドイツW杯で出場機会がないまま帰国した時から人が変わった。
フィジカルトレーニングに重きを置いていなかった遠藤だが、休みの日はジムへ出かけ、練習後は誰よりも遅くまで筋力トレーニングを続けた。
何よりも大切な家族と過ごす時間を削ってでも、サッカー選手としての遠藤保仁を磨き続けた。
南アフリカW杯でゴールを決め、チームをグループリーグ突破に導く。
そんな姿を見て奥さんは涙が止まらなかったという。
4年間の努力を知っているから。どれだけのものを犠牲にして、その場所に立つことが出来たのか。
誰にも見られる事のなかった努力を見ていたものがいた。
ゴールはそんな神様からのプレゼントだったのかもしれないと笑う。
「ヤット」と「yatto」
遠藤保仁のニックネームは「ヤット」である。
恩師である鹿児島実の松沢監督によると、遠藤は面倒くさがり屋で年賀状もあまり書かないとのこと。
そんな遠藤が重い腰をあげたとき「ようやく」という意味で「ヤット」とついたのだそう。
そんな話を聞くと、前項で書いた陰の努力も遠藤の本気度を感じる。
そしてニックネームの「ヤット」からとったのだろう、「Yatto7storE」というオフィシャルグッズサイトでは、遠藤自身が良いと思ったTシャツや帽子などいろいろなアイテムを販売している。
流石人気選手とあって売り切れているものも多いが、新しい商品も入ってくる。
商品ページにはヤットのコメントがあるので、みるだけでも楽しいかもしれない。
(si)